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先進国はインドに足元をみられるか――カナダ人シク教徒「暗殺」疑惑が示すもの

六辻彰二国際政治学者
訪米したインド外相を迎えるアメリカのブリンケン国務長官(2023.9.29)(写真:ロイター/アフロ)

  • シク教徒のカナダ市民が殺害された事件をめぐり、カナダやアメリカとインドの外交的な摩擦が表面化している。
  • カナダやアメリカはこの事件にインド諜報機関が関与していたとみている。
  • この背景には、インドで過激なヒンドゥー教徒による異教徒への迫害がある。

 大国化するインドには、これまでより思い切った行動をとる余地が広がっている。

FBIもアメリカ市民に注意喚起

 アメリカのブリンケン国務長官は9月29日、訪米したインドのジャイシャンカル外務大臣にカナダの調査に協力するよう要請した。これはカナダとインドの外交摩擦を念頭に置いたものだ。

 カナダ政府は9月18日、6月にブリティッシュ・コロンビア州で発生したシン・ニジャール氏の殺害にインド諜報機関が関与している「確度の高い疑惑」を持っていると明らかにした。

 この事件は6月18日、バンクーバー郊外で発生した。ニジャール氏がシク(シーク)教寺院から出たところを覆面の二人組に銃殺されたのだ。

 ニジャール氏はインド北部パンジャブ州の出身だが、1997年にカナダに移住し、2007年には市民権も取得していた。

 その一方で、シク教徒の多いパンジャブ州をインドから分離独立させることを目指すカリスタン運動の指導者の一人として、インド政府から「テロリスト」に指定されていた。

 カナダ外務省は「外国政府が市民の殺害に関わることは受け入れられない主権の侵害」と批判する。

 これに対して、インド政府は疑惑を否定し、カナダとの間でそれぞれ大使を召喚させる外交対立に発展した。

 この事態にアメリカは基本的にカナダを支持しており、FBI(連邦捜査局)アメリカ居住のシク教徒にも注意を促している。ブリンケンの発言はこれを反映したものである。

シク教総本山での衝突

 この疑惑の背景にあるシク教徒の分離運動について、ここで簡単にみておこう。

 シク教徒はパンジャブ州を中心に世界に2600万人ほどいるとみられているが、ヒンドゥー教徒が大多数を占めるインドでは人口の2%ほどを占めるに過ぎない。

 独立後、シク教徒の間にはパンジャブ州の自治権拡大を求める機運が高まり、それを警戒するインド政府との緊張は高まった。パンジャブ州の産業振興が遅れがちで、失業者が増えたことも、シク教徒の不満を呼びやすかった。

 その対立が火を吹いたのは1984年6月だった。

 シク教徒の一部が総本山である黄金寺院(ハリマンディル・サーヒブ)に立てこもり、政治改革を要求した。これに対して、インド政府は軍事力による掃討(ブルースター作戦)を敢行したのだ。

 この際、500人余りが殺害されたと後にインド政府は発表したが、無関係の市民を含めて殺害人数はもっと多かったという見方もあり、シク教徒の団体は「海外メディアが入れないなか、ヘリや戦車まで動員された大量虐殺(genocide)」と表現する。

 その報復として同年10月、インディラ・ガンディー首相がシク教徒に暗殺された。これがさらに1万人近いシク教徒が殺害される暴動に発展したのだ。

 こうした背景のもと、分離独立を求めるカリスタン運動はパンジャブ州だけでなく海外に居住するシク教徒の間に広がってきたのである。

ヒンドゥー至上主義の増幅と拡散

 こうした対立は近年、再び激しさを増している。その一因はモディ首相率いる与党BJP(インド人民党)が「インド人=ヒンドゥー教徒」のイメージ化を進めてきたことにある。

 BJPが政権を握った2014年以降、インドではヒンドゥー至上主義と呼ばれる過激思想が広がり、異教徒への迫害・襲撃が目立つようになった。当初とりわけ目の敵にされやすかったのはムスリムだったが、徐々にキリスト教徒などにも広がっている。

 インド国内だけでなく、海外に居住するインド人がムスリムなどと衝突する事案もしばしば発生している。

 こうした背景のもと、シク教徒の間でもモディ政権への拒絶反応が強まっており、昨年2月のパンジャブ州議会選挙でBJPは過去最低の2議席しか獲得できなかった。さらに選挙期間中、パンジャブ州に入ったモディ首相は抗議デモに行く手を阻まれ、早々に州外に退避せざるを得ない事態にまで至った。

 シク教徒はインド全体では全くの少数派だがパンジャブ州人口の約6割を占める。

 これをきっかけにBJPからはしばしば「シク教はヒンドゥーの一部」といった言説が流布するようになり、それに比例してカリスタン運動への締め付けは強化されてきた

 今年3月、インド警察はパンジャブ州で数千人の治安要員を動員し、インターネットを一時遮断するなど大々的なカリスタン運動狩りを行い、指導者アムリトパル・シンをはじめ100人以上のシク教徒が逮捕された。

 インド当局は網の目を海外に居住し、インターネットなどを通じてメッセージを発信するシク教徒にも広げている。6月に殺害されたニジャール氏に関しても、インド国家捜査局は2007年にパンジャブ州で発生した映画館爆破事件などに関与した疑いで「テロリスト」として指名手配しており、情報提供に120万ドルの報奨金を出していた。

先進国の直面するジレンマとは

 ニジャール殺害事件の主体として疑惑を向けられているのは、インドの諜報機関RAW(調査分析機関)だ。イギリスにあるRUSI(王立防衛安全保障研究所)のウォルター・ラドリック博士は「RAWのこれまでの活動はスリランカやバングラデシュなどインドの周辺国がほとんどで、欧米でのこうした活動は初めてではないか」と述べている。

 海外に逃れた反体制派に本国が刺客をさし向けることは、これまでロシアやイランなどに関してしばしば語られてきた。また、近年では2019年にサウジアラビア政府がジャーナリストのジャマル・カショギ氏をトルコにあるサウジ領事館で惨殺した事例がある。

 もしRAWがニジャール暗殺を実行したとすると、外国の市民権を取得した者をその国で殺害したことになり、国家主権という意味ではより深刻である。

 その一方で、カナダもアメリカもこの問題ができるだけ深刻化しないよう配慮している。両国がインド政府を正面から批判するのではなく、「捜査への協力」を求めているのはその象徴だ。

 アメリカや先進国にとってインドとの関係は、中国包囲網の形成だけでなくウクライナ侵攻をめぐる対ロ制裁においても重要度を増している。疑惑浮上後、ウィルソンセンター南アジア研究所のマイケル・クーゲルマン所長はAPに「欧米の民主主義国家が戦略的な計算からインドを取り除こうとしているわけではないと思う」と述べているが、これは大方の見方を代表するものといえる。

 だとすると、インド政府もそれを理解しているだろう。

 つまり、仮にインド政府がニジャール暗殺に踏み切ったとすれば、そこには「欧米は強く出られないはず」という目算があったことになる。その場合、今回の件に関する先進国の対応次第では、国際的な立場が強くなったインドが今後さらにきわどい方針に向かう転機にもなり得る。

 疑惑を解明せず、うやむやにすれば先進国にとって外交的な傷を大きくしなくて済む。しかし、それはインドに足元をみられるきっかけにもなりかねない。

 先進国は大きなジレンマに直面しているのである。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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